水素吸入がくも膜下出血後の脳虚血を軽減する可能性

結論
ラットのくも膜下出血模擬モデルにおいて、水素ガス(1.3%)の吸入が脳の脱分極(神経活動の異常な持続)の総持続時間を有意に短縮し、長時間にわたる脳虚血の発生を完全に防いだ。水素は即効性があり、効果発現に2〜3日かかるマグネシウムが効き始めるまでの早期脳保護として有望と考えられる。
研究の背景と目的
くも膜下出血(SAH)は脳動脈瘤の破裂などで起こり、死亡率が30〜40%と予後が悪い脳卒中の一種である。SAH後の脳では「皮質拡延性脱分極」(CSD)※という異常な神経活動の波が繰り返し生じ、これが長引くと脳梗塞のリスクが約80%にまで跳ね上がるとの報告がある。
水素ガスの抗酸化作用やマグネシウムの受容体遮断・血管拡張作用がSAH後の脳保護に有効とされてきたが、CSDと脳血流への影響を定量的に調べた研究はなかった。本研究はラットのSAH模擬モデルを用い、水素吸入とマグネシウム髄腔内投与がCSD・脳血流に与える効果を検証した。
※CSD:脳の表面を波のように広がる脱分極(神経細胞の異常な興奮)で、エネルギーを大量に消費し、脳組織を傷つける原因となる。
研究の方法
成体の雄ラット28匹を5群に分け、脳表面にNO阻害剤と高カリウム溶液を灌流して「SAH後の脳環境」を再現し、1時間にわたって脳の電気活動(脱分極)と脳血流の変化を測定した。
| 群 | 匹数 | 脳表灌流液 | 水素吸入(1.3%) |
|---|---|---|---|
| 偽手術群 | 6 | 人工脳脊髄液のみ | なし |
| 対照群 | 6 | SAH模擬環境(NO阻害+高カリウム) | なし |
| 水素群 | 5 | SAH模擬環境 | あり |
| マグネシウム群 | 5 | SAH模擬環境+Mg²⁺ | なし |
| 水素+マグネシウム群 | 6 | SAH模擬環境+Mg²⁺ | あり |
主な評価項目は、脱分極の総持続時間、脳血流低下の総持続時間、20分以上続く長時間型の脳虚血の有無、脳含水率、体重変化、神経学的スコアである。
研究の主な結果
本研究の結果から、以下の3点を取り上げる。
- ① 脳の脱分極持続時間が短縮された
- ② 脳血流の低下時間が短縮された
- ③ 長時間持続する脳虚血が抑制された
① 脳の脱分極持続時間が短縮された
脱分極が長引くほど、脳はエネルギーを消耗し組織のダメージが拡大する。本研究では1時間あたりの総脱分極時間を各群で比較した。
| 群 | 総脱分極時間 | 対照群との比較 |
|---|---|---|
| 偽手術群 | 666 ± 170 秒 | ― |
| 対照群 | 2,389 ± 305 秒 | ― |
| 水素群 | 1,262 ± 162 秒 | p<0.05 |
| マグネシウム群 | 633 ± 57 秒 | p<0.05 |
| 水素+マグネシウム群 | 778 ± 283 秒 | p<0.05 |
水素吸入だけで総脱分極時間はおよそ半分に短縮された(p<0.05)。マグネシウム群や併用群ではさらに短くなり、偽手術群とほぼ同等のレベルまで回復した。水素単独でも統計的に有意な効果が確認された点は、即効性のある脳保護手段として注目に値する。
② 脳血流の低下時間が短縮された
脱分極に伴い脳の血流が低下する現象を「脳虚血」と呼ぶ。本研究では、血流がベースラインを下回っていた累計時間(総低灌流時間)を各群で比較した。
| 群 | 総低灌流時間 | 対照群との比較 |
|---|---|---|
| 偽手術群 | 510 ± 405 秒 | p<0.05 |
| 対照群 | 2,033 ± 239 秒 | ― |
| 水素群 | 1,263 ± 293 秒 | 有意差なし |
| マグネシウム群 | 182 ± 182 秒 | p<0.05 |
| 水素+マグネシウム群 | 456 ± 211 秒 | p<0.05 |
マグネシウムを含む群では血流低下の累計時間が大幅に短縮された。一方、水素単独では短縮傾向はあったものの統計的有意差には届かなかった。これはマグネシウムの血管拡張作用が血流の回復に直接寄与しているのに対し、水素の効果は脱分極の持続を抑えることで間接的に血流を守るという、作用経路の違いを反映していると考えられる。
③ 長時間持続する脳虚血が抑制された
20分以上続く長時間型の脳虚血は、脳組織の壊死に直結する危険な状態として知られる。本研究ではこの長時間型虚血の発生の有無を各群で調べた。
| 群 | 長時間型の脳虚血が発生した匹数 |
|---|---|
| 偽手術群 | 0/6 |
| 対照群 | 3/6 |
| 水素群 | 0/5 |
| マグネシウム群 | 0/5 |
| 水素+マグネシウム群 | 0/6 |

対照群では半数(3/6匹)に危険な長時間型の脳虚血が発生したが、水素やマグネシウムを投与した群ではすべてゼロだった。興味深いことに、水素+マグネシウム群では脱分極の「回数」自体はむしろ増加していた。しかしこれは悪化ではなく、1回あたりの持続時間が短くなったことで脳組織が素早く回復し、次の脱分極に応答できる状態を維持できたためと考えられている。
安全性
各群の間で、血圧・血液ガス(pH、PaCO₂、PaO₂)・体温に有意差はなく、水素吸入やマグネシウム投与による明らかな副作用は認められなかった。
考察と今後の課題
水素の主な作用は、脱分極の持続中にミトコンドリアで発生する活性酸素を除去し、脱分極の悪循環を断ち切ることにあると考えられる。一方、マグネシウムはNMDA受容体の遮断と血管拡張によって血流を回復させ、両者が相補的に作用した可能性がある。
ただし本研究はSAH模擬モデルであり、実際のくも膜下出血(全脳への出血)ほど重症ではないため、脳浮腫・体重減少・神経学的スコアに有意差が出なかった可能性がある。各群5〜6匹と少数例であり、今後はヒトでの臨床検証が求められる。なお、SAH患者を対象とした水素吸入の臨床試験(HOMA試験)がすでに進行中であり、その結果が注目される。
すいかつねっと編集部の感想
くも膜下出血後の脳では「脱分極」という異常な神経活動が繰り返し起こり、これが脳梗塞へとつながることが近年わかってきています。本研究は、水素吸入がこの脱分極の持続時間と脳血流に与える影響を初めて定量的に示した点で新しい知見です。
同じ研究グループは2021年に、重症くも膜下出血の患者に対して水素点滴とマグネシウム髄腔内投与を組み合わせた臨床研究を発表しています。本研究はその基礎メカニズムを動物モデルで解明する位置づけにあり、「なぜ水素とマグネシウムの組み合わせが有効なのか」の手がかりを示しています。
もちろんラットモデルでの結果であり、直接ヒトに当てはめることはできません。しかし、くも膜下出血に対する水素研究は2012年の早期脳障害の軽減に始まり、生存率の改善、遅発性脳損傷の改善と着実にエビデンスが積み重なっています。現在進行中の臨床試験の結果が、今後の大きな転機になるかもしれません。
用語解説
| 用語 | 解説 |
|---|---|
| くも膜下出血(SAH) | 脳を覆うくも膜と軟膜の間の空間に出血が起こる疾患。主に脳動脈瘤の破裂が原因で、死亡率が30〜40%と高い |
| 皮質拡延性脱分極(CSD) | 脳の表面を波のように広がる神経細胞の異常な脱分極。大量のエネルギーを消費し、脳組織を傷害する |
| 早期脳損傷(EBI) | くも膜下出血の発症から72時間以内に起こる脳の障害。その後の遅発性脳虚血の引き金となる |
| 遅発性脳虚血(DCI) | くも膜下出血の数日後に生じる脳の血流低下や梗塞。予後を大きく左右する合併症 |
| NMDA受容体 | 神経細胞に存在するグルタミン酸受容体の一種。過剰な活性化は神経細胞死を招く。マグネシウムはこの受容体を遮断する |
| 活性酸素(ROS) | 体内で発生する反応性の高い酸素分子の総称。過剰に産生されると細胞やDNAを傷害する |
| 髄腔内投与 | 脳と脊髄を取り巻く脳脊髄液の中に直接薬剤を投与する方法 |
| SAH模擬モデル | 実際に出血させる代わりに、NO阻害剤と高カリウム溶液で出血後の脳環境を再現した実験モデル |
論文情報
論文タイトル
Hydrogen inhalation and intrathecal magnesium sulfate ameliorate ischemia by suppressing cortical spreading depolarization in a rat subarachnoid hemorrhage model(水素吸入と硫酸マグネシウム髄腔内投与はラットくも膜下出血モデルにおいて皮質拡延性脱分極を抑制し虚血を改善する)
引用元
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