《この記事の執筆者》
2011年国立大学医学部卒。初期臨床研修を経て総合診療医として勤務しながら、さまざまな疾患の患者さんに向き合う治療に従事。医療行政に従事していた期間もあり、精神福祉、母子保健、感染症、がん対策、生活習慣病対策などに携わる。結核研究所や国立医療科学院での研修も積む。2020年からは医療法人ウェルパートナーで主任医師を勤める。
がん治療に欠かせない抗がん剤ですが、治療を受けた方の中には「物忘れが増えた」「集中力が落ちた」といった認知機能の低下を感じる人が少なくありません。こうした症状は「ケモブレイン」とも呼ばれ、生活の質に大きな影響を及ぼします。
そこで注目されているのが「水素吸入」です。
本記事では、抗がん剤による「ケモブレイン」の原因や症状などの基本情報から、水素吸入がどのように役立つ可能性があるのかについて解説します。抗がん剤治療を受けられる方に役立つ内容となっていますので、ぜひ最後までご覧ください。
抗がん剤治療と認知機能低下について
抗がん剤は、現代のがん治療を支える重要な治療方法の一つです。がん細胞の増殖を抑え、がんの進行を抑えたりがんを縮小したりする効果が期待できます。
一方で、抗がん剤は副作用も現れやすい薬剤です。なかには生活の質を大きく下げる副作用が現れることもあり、認知機能低下が生じる「ケモブレイン」もその一つとされています。
まずは、抗がん剤治療による認知機能低下の原因や症状、対処方法について詳しく見てみましょう。
抗がん剤治療による認知機能低下の原因
抗がん剤治療によって引き起こされる認知機能低下の明確な発症メカニズムは解明されていません。
さまざまな研究の結果、以下のような原因があるのではないかと考えられています。
- 抗がん剤自体による脳の神経細胞へのダメージ
- 抗がん剤によって増えた活性酸素による脳の神経細胞へのダメージ
- ホルモンバランスの変化(ホルモン療法併用時)
- 治療によるストレスなどの精神的な不調
抗がん剤治療による認知機能低下の具体的な症状
抗がん剤治療によって引き起こされる認知機能低下の症状には以下のようなものが挙げられます。
- 物忘れが多くなる
- 集中力がなくなり、不注意が増える
- 判断力が低下する
- その場に適した行動や発言ができなくなる
- 物事を処理する能力が低下する
これらの症状は、治療中に生じる一時的なものであるケースもあれば治療を終えても長期間続くケースもあります。抗がん剤治療中にどの程度の割合で発症するのか正確なデータもなく、まだまだ不明な点が多い症状の一つです。
抗がん剤治療による認知機能低下への対処方法
抗がん剤治療による認知機能低下への確立した対象方法はないのが現状です。発症が疑われる場合は、症状の重症度に合わせた対応を行います。
具体的には、認知機能を維持するためのリハビリテーション、生活習慣の改善、薬物療法などが挙げられます。しかし、これらの対処方法は十分な効果が得られないケースも多く、日常生活に支障を及ぼす症状に悩まされている方も少なくありません。
水素吸入は抗がん剤治療による認知機能低下の予防や改善に役立つ?
抗がん剤治療によって引き起こされる認知機能低下は不明な点も多く、確立した予防や対処方法はありません。そのため、現在でも多くの研究が行われています。
水素吸入と抗がん剤治療による認知機能低下の関係を直接調べた研究結果は現在のところ報告されていません。
しかし、水素吸入で除去できる活性酸素が認知機能低下の発症や増悪に関わっている可能性を示唆する論文は発表されています。
具体的にどのような内容か詳しく見てみましょう。
活性酸素が抗がん剤治療による認知機能低下を引き起こしている可能性
2021年、アメリカの研究チームは抗がん剤によって増加する活性酸素が脳の炎症を引き起こして認知機能低下を引き起こす可能性を示唆する論文を発表しました1)。
この論文は、これまで行われてきたさまざまな研究結果をまとめて要約した総説論文です。
抗がん剤治療による認知機能低下は抗がん剤による酸化ストレスと炎症性物質が原因として挙げられています。多くの抗がん剤は脳の細胞に直接届きません。しかし、抗がん剤は活性酸素を増加させることでTNFαなどの炎症性物質の産生を活性化させ、脳の機能を司る物質の生成に影響を与える可能性があると指摘しました。
水素吸入が抗がん剤治療による認知機能低下を予防する可能性
この論文の考察から、抗がん剤治療は体内の活性酸素を増やし、その結果として脳の機能に影響を及ぼす可能性が示唆されます。
研究者たちは、抗酸化物質や抗TNFα薬の投与が認知機能低下の予防になる可能性を提唱しました。
水素吸入は効率的に活性酸素を抑えられるため、活性酸素も認知機能低下の予防法の一つになる可能性があります。実際の効果を実証するには、ヒトを対象として大規模な臨床研究が必要ですが、今後の進展に期待できる分野といえるでしょう。
活性酸素の除去は抗がん剤治療による認知機能低下の症状を改善する可能性
2018年、アメリカの研究チームは抗酸化物質の投与が抗がん剤治療による認知機能低下を改善する可能性を示唆する研究結果を報告しました2)。
この研究はマウスを用いた動物実験です。ドキソルビシンという抗がん剤を投与したマウスを用いて酸化ストレスによって増える脳と血液中の物質を測定しました。その結果、ドキソルビシン投与後は酸化ストレスに関連する物質が増加し、72時間後には記憶障害が発生したとのことです。
さらに抗酸化作用を持つMESNAという物質を投与したところ酸化ストレスに関連する物質が減少し、記憶障害が改善したことが明らかになりました。
水素吸入は抗がん剤治療による認知機能低下を改善する可能性
この研究結果から、ドキソルビシンによって増加する体内の活性酸素は認知機能低下を引き起こし、抗酸化物質によって改善する可能性が示唆されました。
動物実験の段階であるためヒトに対しても同様の効果があると断言できる段階ではありません。しかし、今後ヒトに対する大規模な臨床研究を行えば効果が実証できる可能性はあるでしょう。
また、より多くの抗がん剤に対しても同様の効果があるのか検証を重ね、解明が進むことを期待します。
【私はこう考える】水素吸入と抗がん剤による認知機能低下
抗がん剤治療による認知機能低下の全貌はまだ解明されていない部分も多く、近年になって注目されている副作用です。そのため、確立した予防や対処方法はなく、日常生活に支障を感じている方も少なくないでしょう。
今回ご紹介した2つの研究結果から、水素吸入も抗がん剤治療による認知機能低下の予防や改善に大いに役立つ可能性を秘めると考えられます。
2018年の研究では、実際に抗がん剤の投与によって活性酸素が増えて認知機能が低下し、抗酸化物質の投与で症状の改善を認めました。動物実験の段階ではありますが、抗がん剤治療による認知機能低下と活性酸素の関係、そして対処法を確立していく上で非常に意味の大きな報告だったと考えます。
また、2021年に発表された総説論文では活性酸素の増加がどのように認知機能低下を引き起こすのか有益な推測が立てられました。
これらの結果を生かし、今後もさらに研究が進むことを期待します。抗がん剤による認知機能低下の予防や改善に水素吸入が広く使用される日が来るかもしれませんね。
参考文献
- Rummel, N. G., Chaiswing, L., Bondada, S., St Clair, D. K., & Butterfield, D. A. (2021). Chemotherapy-induced cognitive impairment: focus on the intersection of oxidative stress and TNFα. Cellular and molecular life sciences : CMLS, 78(19-20), 6533–6540. https://doi.org/10.1007/s00018-021-03925-4
- Keeney, J. T. R., Ren, X., Warrier, G., Noel, T., Powell, D. K., Brelsfoard, J. M., Sultana, R., Saatman, K. E., Clair, D. K. S., & Butterfield, D. A. (2018). Doxorubicin-induced elevated oxidative stress and neurochemical alterations in brain and cognitive decline: protection by MESNA and insights into mechanisms of chemotherapy-induced cognitive impairment (“chemobrain”). Oncotarget, 9(54), 30324–30339. https://doi.org/10.18632/oncotarget.25718